2014年6月13日金曜日

お知らせ

6月20日付の発行で、中央協議会から使徒的勧告『福音の喜び』が発行されます。そういうわけで、こちらの掲載は、私訳として参考までに残しておきますが、正式には中央協議会のものをご利用ください。ありがとうございました。

2014年6月5日木曜日

237 第四章 福音宣教の社会的側面>III 共通善と社会平和>全体は部分の上位にある



237.キリスト者たちには、この基本は、教会がわたしたちに伝承しわたしたちを宣教するために送り出す福音の全体性と統合性についてもわたしたちに語ります。その完全な富は学者も労働者も、会社員も芸術家も、誰をも招き入れます。民間神秘主義はその仕方で福音全体を受け入れ、祈りや兄弟愛、正義、闘争、祭りの表現にこれを受肉させています。良い知らせとは、そのちっちゃな者のひとりですら失われるのを望まない父の喜びなのです。そのように失われた羊に出会いこれをその群れに復帰させる善い牧者の喜びが湧き出ます。福音は、パン生地全体を発行させるパン種であり、すべての民俗を照らしながら山の高いところで輝く都なのです。福音にはそれに内蔵する全体性の判断基準があります。すべての人に告げ知らされない限り、人のあらゆる局面に実りをもたらし癒さない限り、御国の食卓にすべての人々を統合しない限り、良い知らせとして終わらないのです。全体は部分の上位にあるのです。

236 第四章 福音宣教の社会的側面>III 共通善と社会平和>全体は部分の上位にある



236.模範となるものは、中心から同じ距離にそれぞれの点があり、互いに違いのない、部分部分の上位にいない球体なのではありません。模範となるのは、自らのオリジナリティをそのうちに保つ断片すべての合流を反映する多面体なのです。司牧活動も政治活動も、一人一人のよりよいところをその多面体のうちに迎え入れようとするものなのです。そこに貧しい人たちが、その文化やそのプロジェクト、その独自の能力とともに含まれます。自分の過ちのために問われるところを持ちうる人たちでさえ、失われてはならない貢献する何かを持っているのです。それは宇宙的な秩序のうちにある、自らの独自性を保った諸民族の相対なのです。それは本当にすべての人たちを招き入れる共通善を求める社会にいる人々の全体なのです。

235 第四章 福音宣教の社会的側面>III 共通善と社会平和>全体は部分の上位にある



235.全体は部分よりも多く、それは単なる部分部分の合計でもありません。そこで、限られていて具体的な問題にあまりにこだわりすぎてもいけないのです。すべての人に益をもたらすであろうより大きな全を認識するためにいつもまなざしを広げなければならないのです。けれどこれを、逃避することなく、根差すところもない形ではなく行わなければなりません。神の賜物という、肥沃な土地、自分の居場所の歴史に根を下ろす必要があるのです。小さいことのうちに、近いところにあることのうちに働かれるのですが、より広い展望を持って働くのです。同じように、個人的な独自性を保ちそのアイデンティティを隠さない人は、心から共同体に参与するとき、自分自身の発展のために自らを消滅させるのではなく、いつも新しい刺激を受けるのです。これは人格を支配して消す球体でも、不毛にする孤立した断片でもないのです。